みなさん、風はまだ、吹いてますか?はい、わたしは、びゅんびゅん吹き荒れてます。仕事をつめて、ほぼ泊まりこみでやってるのでいろんなこと放置ですが、下降気流に入ったなぁと思ったら、「風立ちぬ」を観に行きます。
映画ってほんとうにいいですね。以下ネタバレ有ります。まだの方はお気をつけあれ。
いやはや、宮崎駿監督の「風立ちぬ」は賛否両論のようで、議論が起きるのは良いことではないかと思います。みなさんは観られましたか?どうでしたか?
僕は、今のところ2回観ましたが、2回とも泣いちゃってます。男のくせに泣きがやがって!!。ああー、泣きますとも。でも、1回目と2回目では泣く回数も変わってくるわけであります。2回目は予備知識が豊富だし、自分なりの思考も固まってきてるので、より深いところを見ようとするわけです。
でも、やっぱり、二郎が九試単座戦闘機を完成させて家に帰ってきた所からは涙が出てします。菜穂子が残り少ない人生の中で二郎を支えるという決心をした。その想いが帰ってきた瞬間から溢れ出してきます。菜穂子のことを男の願望や妄想という人もいるようですが、男と女が逆の立場であっても成立する話しです。
僕は、菜穂子の存在は、二郎が夢でカプローニに「想像的人生の持ち時間は10年だ」といわれた設計家の寿命を擬人化し、解釈しやすいようにしたものだと思っている。もちろん菜穂子は結核と闘いながらも、二郎の帰らないでという言葉に心動かされ、そばにいることで二郎を支えるという大きな使命を果たしていますので、そのこともきちんと含んではいます。だからこそ、加代に、菜穂子を高原病院に戻すように言われた時に「僕たちは1日1日を大切に生きているんだ」という「僕たち」となるのだと思います。
でも、僕が、この映画に心を動かされているのは、この二人の存在だけじゃなく、時代背景とそれらの描写なんです。宮崎駿監督のセル画には、動かないキャラクタがいないといわれるほど多くのキャラクターが様々な行動をとっています。今回はそのサブキャラクターたちから、俺達は、この時代を生き延びるんだという動きに集中しているのが想いがヒシヒシと伝わってくるのです。
それは、まさにキャッチコピーである「生きねば」を時代背景とともに描写したもので、今までの宮崎アニメとはリアリティにおいて一線を画しています。
じつは、僕は、二郎が会社に初出勤する途中の部分で、身震いが起きました。音楽や映画を見て鳥肌が立つことはあるのですが、細胞がブルっときたのは初めてです。それは、心に、「おまえ、時代に甘えてのんびり生きてないか?」と、映像が語りかけて来た気がしました。二郎が東京から名古屋での初出勤するまでのクダリは僕にとってはかけがえのない宝です。このシーンがあるからこそ「1日1日を大切に生きる」という言葉に重みをすごく感じれます。
先ほど、キャッチコピーの事に少し触れましたが、もともとのキャッチコピーは「いざ生きめやも」だったそうです。「いざ生きめやも」とは「生きるだろうか、いや生きることはないだろう」。この部分は堀辰雄の訳に対していろいろと論争があるようですが、宮崎駿監督もそのことは承知のうえでキャッチコピーにしていたのだと思います。
というのも、ラストシーンの菜穂子の「生きて」というセリフ、元々は「来て」だったそうです。あの場面は煉獄に留まっている二郎を菜穂子が彼岸へ誘うというシーンだったのを、アフレコで「生きて」に変えたそうです。それに伴い、キャッチコピーも変わったのでしょう。僕は、彼岸へ向かっても良かった思います。むしろ、ここを生きさせてしまったら、エゴイズムとか言われてしまうのだと思います。
なお、二郎の元を去った菜穂子の面倒は加代が幾度となく見にいっていたことでしょう。黒川の女将さんが、汽車にのるまではそっとしておいてといってますので、汽車にのった後の加代は全力疾走だったとおもいます。でも、それでいいのです。黒川の女将さんの判断は正しかったと思います。汽車に乗る前に菜穂子が加代と会ってしまうと、菜穂子の決心を弄ぶことになりかねない。
しかし、未だに、ラストがなぜワインを飲むのかがよくわからない、この映画の謎です。でも、それはいいのです。僕は、この映画から大きなものをいただきました。だから今も会社で泊まりこんで作業しているのです。「1日1日を大切に生きているんだ」と胸を張って言える自分になるのです。それは、いっぱい働いたからという意味ではなくてね。